2013年5月17日金曜日

定まらない視点



こうあって欲しいとメディアに望む2つ目のポイントは、明確な視点です。

例えば、朝の天気予報の「今日は暖かくなるでしょう」という言葉を信じて、半袖で出掛けると凍え死ぬほど寒かったとします。テレビ局に文句を言うと、「いやアレは、南極なら…という話です。南極ならマイナス五度や十度は充分に暖かいと言えるので、何も間違っていません」と返事をされたら、たいていの人は怒るでしょう。

地元テレビ局が地元の天気予報をしているのだから、寒暖の基準も当然、地元の視点だと思い込むのは当たり前です。そうで無いなら、天気予報として役に立ちません。何かの理由があって南極の感覚(視点)を持ち出すなら、それをハッキリと断ってくれないと、視聴者が間違った判断をしてしまいます。



物理や科学の世界は別にして、人間が営む社会の中に絶対など有りません。絶対的な正義も、普遍的な悪も無いのです。すべては、相対的に判断されます。そして、絶対が無い相対的な話では、その人の立ち位置、つまり何処に立脚した視点かということが、何よりも大事な基本となります。

例えばスポーツの試合なら、味方のミスはアンラッキーですが、相手の視点から見ればラッキーでしょう。同じ一つの出来事に対する評価も、その後の対処も、視点が違えば大きく変わります。

政治的なテーマ、特に他国が関わる外交でも、何処に立脚した視点を持つかで、評価・分析・提言は、まったく違うものになるはずです。当然、それを報じ、時には論じるメディアの視点は、明確なものでないと困ります。



しかし既存メディアの多くが、何処に立脚した視点なのか分からないような報道を頻繁に行っています。というより、自分が何処に立っているのかという基本的なことさえ、意識していないようです。

それでは視点が定まるはずもなく、また、その場その場の都合でコロコロと視点を変えても、まるで恥じないわけです。もっともそれは、メディアに限った話では無くて、多くの国民も同じだと思います。

言うまでも無く、日本という社会に立脚している日本人や日本のメディアの視点は、この日本という国でなければなりません。つまり日本人にとっての繁栄と安全から見て、どうなのかという視点です。その視点は、どこの国でも同じでしょう。



「客観的視点」とか「多様な視点」という言葉で、曖昧な視点を誤魔化す人もいますが、それらは基本となる揺るがない視点があってこそ、初めて意味を持つものです。基本となる視点が曖昧な記事は、どんなに素晴らしい文章でも、それは判断や理解の材料にはなりません。むしろ誤った認識や判断を誘う、有害な記事だと思います。

ハフィントンポストの記事でも、何処に立脚した視点で書かれているのか、非常に疑問を覚えるモノが少なく無く、その点でも既存の日本メディアと同じに思えます。

次は、三番目のポイントとして、「判断を委ねる姿勢」について書いてみます。


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