2015年4月13日月曜日

頼れる中国?


あまり治安が良くないし、警察も当てにならない。もしそんな地域に住んでいるとしたら、誰を頼りにするだろう?
真面目で優しいけど、いざという時には見てるだけの人?  それとも普段の評判は芳しくないけど、身体を張って来てくれる人?

一週間以上過ぎたが、イエメンでの中国軍の活躍を重要視するメディアや言論が少ない。絶好のケーススタディだし、この行動が与える影響を考えるだけでも価値があると思うのに、関心の薄さに驚く。


【新華社電によると、中国海軍のミサイルフリゲート艦「臨沂」は混乱の続くイエメンからの避難を希望した外国人を支援し、10カ国の225人を2日にアデン港から隣国ジブチに移送した。 http://t.co/6qAR2C1Dfv】

【中国軍艦、日本人脱出も支援=大使館は一時閉鎖-イエメン: 時事通信 http://t.co/oH6Cx1R8SZ 】


非常時には頼れる中国、存在感の無い日本。そんな印象を世界に、そして日本人自身にまで与えていいんだろうか?
この二年余で、アルジェリア・中東・チュニジアと、12名の日本人が外国でテロリストに殺されているのに、国会やメディアが取り上げるのは馬鹿気た言葉遊びばかりだ。

もういい加減に実効性のある議論を大人たちの間で行わないと、自分の家族の安全を外国の好意に頼る日が来るかもしれない。状況や事件は、言葉遊びや現実から乖離した憲法に遠慮してくれないのだから。ましてや憲法に唱う、「国際社会における名誉ある地位」は、いざという時に存在感ゼロでは得られない。


…もっと取り上げられるべき重要な出来事として、記録のために。

2015年4月4日土曜日

奇妙な記事


田岡俊次氏による、ダイヤモンド・オンラインの記事は奇妙だ。
「自衛隊海外派遣で想定される死傷者に我々は耐えられるか? 」
http://t.co/ot0lwCJyOE  2015.4.2


記事は、「自衛隊の海外派遣にはよほどの慎重な判断が必要…」という、極く当り前の文章で締め括られている。が、全文を読んでみると、「自衛隊を海外に派遣したら死傷者がたくさん出る怖ろしい事になりますよ、いいんですか?」という脅しに終始している。

冒頭に安倍政権が進める「自衛隊を海外派遣できるようにする新たな恒久法作り」を持ち出し、その後は危険、危険のオンパレードだ。曰く、「外国軍占拠地域での治安維持活動は 現実には平定作戦、ゲリラ討伐に等しい」、「PKOでも他国部隊を自衛隊の部隊が救援に向かう駆けつけ警護で死傷者が出る」、「後方の物資輸送部隊はかえって敵に狙われやすい」など、とにかく何をしても死傷者が出るぞという話ばかり。

もちろん実際に危険はあるだろうし、死傷者も出るだろう。しかし死傷者が出る事と、自衛隊の海外派遣の是非は別の問題だ。そうした犠牲を払ってでも、自衛隊を派遣しなければならない時もあるはずなのに、その点にはまったく触れないのが奇妙だ。熟慮は必要だが、死傷者が出るから派遣しないでは本未転倒だろう。


そしてもっとも奇妙なのが、「自衛隊海外派遣で想定される死傷者に我々は耐えられるか? 」というタイトルだ。記事が例として取り上げたアフガニスタンには、オーストラリア軍以外にもドイツやフランス、北欧を含めた欧州のほとんどの国、そしてニュージーランドに至るまで、計42ケ国が国際治安支援部隊として参加して来た。当然、各国は死傷者を出していて、以下のような資料がある。

【アフガニスタン戦争における犠牲者数】
http://web.econ.keio.ac.jp/staff/nobu/iraq/casualty_A.htm

この資料を信じるなら、フランス86人、ドイツ54人、カナダ158人、デンマーク43人、ニュージーランドでさえ11人の死者を出している。日本の人口の二十分の一程度の小さな国でさえ、こうした犠牲を払っているのだ。

普通の国々、あるいははるかに小さな国でも耐えている犠牲を、なぜ「我々は耐えられるか?」などと問うのだろう。我々は半人前国家ではないし、子供でも無い。普通の国々に出来る事は、当然、日本にも出来る。いや、出来なければいけないだろう。

自分の国や国民を半人前扱いするような記事は、本当に奇妙だ。

2015年2月17日火曜日

日本人は12歳の子供なのか?


ちょっとした騒ぎになった、曽野綾子氏のコラム。この騒ぎをフランスの風刺画の時と較べてみると、気になる点がある。


シャルリー・エブドの風刺画は、フランス国内でもほとんどの人が眉をひそめていたらしい。事実、2006年には、当時の大統領シラクがシャルリー・エブド風刺画を「明らかに挑発的」と批判している。曽野綾子氏のコラムも以前から物議をかもしていて、今回も掲載されると直ぐに一部で批判が出ていた。

しかしフランスでは、挑発的な風刺画の存在を、わざわざ海外メディアに広める人はいなかったようだ。裁判や放火事件で報道されたはずだが、海外の大手メディアが何社も批判記事を掲載したような記憶は無い。

ところが日本の場合、なぜか直ぐさま海外の大手メディアが取り上げ英語圏に広められた。芸能人が黒人に似せた黒塗りメイクをしていた件では、海外メディアの日本人記者自身が情報と批判の発信源になっている。例えば、日本のメディアに勤めるフランス人記者が、フランスではこんな風刺画が新聞に掲載されています、とんでも無いでしょ? なんて、日本語による批判の発信源になるだろうか?


その後の展開も、フランスと日本ではまったく違う。
シャルリー・エブドに対するテロが起きた時、多くの人が眉をひそめていた新聞にも関わらず、大統領が率先して「言論の自由」を守ると、370万人を集めて国民行進を行った。各国からもテロに対する非難が集まったが、同時にシャルリー・エブドの一連の風刺画に対して、挑発的過ぎるという指摘も少なくなかった。ローマ法皇も「表現の自由は尊重されるが、信仰の対象を侮辱するべきではない」とメッセージを出している。

しかしフランスは、フランス人自らが「フランス式言論の自由は他国とは大きく違う」と言いながら、それでもこれが、フランスの「言論の自由」だと押し通した。テロ事件後に発売されたシャルリー・エブドの風刺画に対しても、複数の国で死者を出す暴動に発展するほどの抗議が行われたが、フランス社会はもちろん、シャルリー・エブド関係者の誰一人として釈明もしないし、もちろん謝罪もしない。風刺画はそのまま数百万部が人々の手元に残った。

一方の日本では、批判というよりも非難・抗議によって、産経新聞社が曽野綾子氏のコラムを削除してしまった。死者まで出した風刺画は、極東の果てに居ても未だに見ることが出来る。が、曽野綾子氏のコラムは、掲載されていた新聞社のサイトには無い。


いったい、この違いは何だろう? フランスの風刺画と曽野氏のコラムでは、内容が違うからからだろうか? それともテロの有る無しか? いや、重要なのは「言論の自由」であって、その内容やテロでは無いはずだ。テロという実力行使で無くても、新聞社のサイトからコラムが削除されてしまったら、それは「言論の自由」侵されたと言えるのではないだろうか。

産経新聞社が、コラムを削除した理由は分からない。しかし、掲載後の反応が原因であったのは間違い無いだろう。コラムに対する批判や反論というよりも、アパルトヘイトを賛美するというレッテル貼り、そして海外大手メディアの非難、南ア大使館からの抗議。こうしたものに産経新聞社が負けて、曽野氏の「言論の自由」を簡単に手放したのだと思う。

ひとり産経新聞社だけでで無く、他のメディアも、知識人と呼ばれる人たちも、コラムの内容や海外からの批判に目を奪われ、我が国に於ける「言論の自由」を、あっさりと手放したのだろう。フランスが、その内容には同意も好意も持たなくても、激しい抗議を受けても、フランスの言論の自由の名の下にシャルリー・エブドを支持したのとは対照的だ。


しかし、そもそも日本には、いや日本人には、「たとえ他国と違ったとしても、これが我々の言論の自由だ」と信じるものがあるのだろうか? つまり、精神的な自立自存が出来ているのだろうか?無論、日本は現在のところ、西側先進国の中で生きるしか無い。合わせる所は合わせるべきだが、それと自立精神を失う事は違う。キョロキョロと周りを見て、海外メディアに騒がれる度に、慌てて従う。それでは従順な子供だ。

マッカーサーは日本人を12歳の子供と言ったそうだが、自分たちの中にルールを求めるのでは無く、外に教師を求めるような精神では、そう言われても仕方ないかもしれない。



2013年5月21日火曜日

委ねるということ


メディアの提供する情報は、判断材料として適切なものであって欲しいと思っています。政治に関わることなら有権者、特定のテーマなら関係者、それぞれが、より良い判断のできる情報であって欲しいと思っています。

ところが、テレビや新聞などの既存メディアも、新しくメディアサイトとして登場したハフィントンポストも、判断材料を提供するというよりメディア側の判断を押し付けているように思えます。もちろん社説などのように、メディア側が主張する場は有ってしかるべきだと思います。

しかし、普通にニュースを伝える形をとりながら、一方的な押し付けをするのは困ります。よくメディアの人が傲慢だと批判されるのは、こうした読者・視聴者に判断を委ねようとしない姿勢が理由だと思います。




特に酷いと思うのが、記事の「見出し」です。読んで欲しい、その為には分かりやすくて刺激的な「見出し」が必要…なのかもしれません。でも、記事を読む前に印象を決定付けてしまうような「見出し」が、余りにも多過ぎます。

しかも大抵が、公平性などまったく感じないような「見出し」です。記事の中身を読んで貰えば、ちゃんと公平性は保っている…(それにも疑問がありますが)と言うかもしれませんが、「見出し」だけ流し読みする人だってたくさんいるのです。

たとえば、ハフィントンポストで目に付いた以下の「見出し」。これで、ネガティブな印象を持たずにいられるでしょうか?  

・「育休 3年」って誰のため? 安倍首相の子育て支援策に批判噴出
・TPP、日本の参加はたった3日?
・育休3年=在宅勤務3年という意味か?




もしかしてハフィントンポストとは、事実報道では無くて批判報道・意見報道がメインなのかもしれません。しかしテレビや新聞でも、同じように酷い「見出し」を目にします。

すべては私の勘違いで、メディアとか報道・ニュースとは、書いた側の意見を押し付けるものなのでしょうか? 一般の有権者に対して、判断の材料となるように情報を整理して提供してくれる、そんな事を求める方が間違っているのでしょうか?

もしそうなら、なぜメディアの人々は国民の知る権利などと称して、何処にでもヅカヅカと入り込み、偉そうに質問責めにしているのでしょう? 出来るだけ多面的な材料は提供するから、後は有権者として、国民として、読者・視聴者が判断してくれ…と委ねる謙虚さが無いなら、彼らにそんな事を許す必要も無いでしょう。


2013年5月17日金曜日

定まらない視点



こうあって欲しいとメディアに望む2つ目のポイントは、明確な視点です。

例えば、朝の天気予報の「今日は暖かくなるでしょう」という言葉を信じて、半袖で出掛けると凍え死ぬほど寒かったとします。テレビ局に文句を言うと、「いやアレは、南極なら…という話です。南極ならマイナス五度や十度は充分に暖かいと言えるので、何も間違っていません」と返事をされたら、たいていの人は怒るでしょう。

地元テレビ局が地元の天気予報をしているのだから、寒暖の基準も当然、地元の視点だと思い込むのは当たり前です。そうで無いなら、天気予報として役に立ちません。何かの理由があって南極の感覚(視点)を持ち出すなら、それをハッキリと断ってくれないと、視聴者が間違った判断をしてしまいます。



物理や科学の世界は別にして、人間が営む社会の中に絶対など有りません。絶対的な正義も、普遍的な悪も無いのです。すべては、相対的に判断されます。そして、絶対が無い相対的な話では、その人の立ち位置、つまり何処に立脚した視点かということが、何よりも大事な基本となります。

例えばスポーツの試合なら、味方のミスはアンラッキーですが、相手の視点から見ればラッキーでしょう。同じ一つの出来事に対する評価も、その後の対処も、視点が違えば大きく変わります。

政治的なテーマ、特に他国が関わる外交でも、何処に立脚した視点を持つかで、評価・分析・提言は、まったく違うものになるはずです。当然、それを報じ、時には論じるメディアの視点は、明確なものでないと困ります。



しかし既存メディアの多くが、何処に立脚した視点なのか分からないような報道を頻繁に行っています。というより、自分が何処に立っているのかという基本的なことさえ、意識していないようです。

それでは視点が定まるはずもなく、また、その場その場の都合でコロコロと視点を変えても、まるで恥じないわけです。もっともそれは、メディアに限った話では無くて、多くの国民も同じだと思います。

言うまでも無く、日本という社会に立脚している日本人や日本のメディアの視点は、この日本という国でなければなりません。つまり日本人にとっての繁栄と安全から見て、どうなのかという視点です。その視点は、どこの国でも同じでしょう。



「客観的視点」とか「多様な視点」という言葉で、曖昧な視点を誤魔化す人もいますが、それらは基本となる揺るがない視点があってこそ、初めて意味を持つものです。基本となる視点が曖昧な記事は、どんなに素晴らしい文章でも、それは判断や理解の材料にはなりません。むしろ誤った認識や判断を誘う、有害な記事だと思います。

ハフィントンポストの記事でも、何処に立脚した視点で書かれているのか、非常に疑問を覚えるモノが少なく無く、その点でも既存の日本メディアと同じに思えます。

次は、三番目のポイントとして、「判断を委ねる姿勢」について書いてみます。


2013年5月12日日曜日

基本的な情報の提示


お天気キャスターが深刻そうな顔をして、「今日の午後は嵐になるおそれがあります…」と言っていたら、予定などを変更して外出を控えるか、それが無理なら雨具などの備えをして出掛けるでしょう。

でも外は、とても良いお天気です。どう見ても嵐が来るとは思えません。しかもそのニュースでは、気圧配置の図も気象衛星からの写真も、つまり嵐が来るかどうか予想するのに必要な情報が、まったく示されて無いのです。今日の行動を決める判断材料として、この天気予報は役に立つのでしょうか?



ハイフィントンポストに掲載された次の記事は、ちょうどそんな感じです。

この記事で、書き手が言っている事は以下の二行だけです。
懸念されるのは、日本の輸出する原子力技術が、核兵器製造に使われないかという点である。
日本がどのような内容で原子力協力協定を結ぶのか、注意する必要があるだろう。



日本が原発をサウジアラビアに輸出したら、核兵器製造に使われるおそれがある…。これは、冒頭に挙げたデタラメな天気予報と同じように、デタラメな記事です。仮にサウジアラビアが核兵器の開発と保有を目指していたとして、少なくとも技術的なハードルと国際政治のハードルがあるでしょう。

天気予報の喩えで言うなら、技術的な可能性を気圧配置図、国際政治上の可能性を気象衛星から見た雲の様子としましょう。それらの情報は、過不足無く示されているでしょうか? はっきり言って、まったく示されていません。

日本が原発をサウジアラビアに輸出したとして、それが核兵器製造に利用できる事を推測させる技術的な根拠が、まったく書かれていません。同時に、サウジアラビアにとっても日本にとっても強大な後ろ盾である米国が、そんな事を容認すると推測出来る根拠も、まったく書かれていません。

なによりも、記事がわざわざ引用しているように、サウジアラビアは既にフランス・中国・韓国と、原子力協力協定を結んでいるのです。技術的に考えれば日本よりも、核保有国であるフランスや中国との協定に懸念を感じるのが自然ではないでしょうか? しかし、そんな懸念が国際社会や米国から示されたなどと、聞いた事がありません。

つまり、嵐が来るおそれがあると言っているけど、外は良いお天気なのです。長くなるので省略しますが、気圧配置図(技術的なハードル)を見ても、雲の衛星写真(国際政治のハードル)を見ても、嵐が来るとはとても思えません。



この記事を書いた人は、単に日本の原発が輸出される事に反対なのでしょう。その思いが先行して、前提になる基本的な情報を蔑ろにしたのでしょう。この記事に限らず、日本版ハフィントンポストには、そうした記事が少なくありません。ちょうど、テレビや新聞といった既存のメディアがそうであるようにです。しかしこのような記事では、日本の原発輸出をどう考えるかという判断材料には、まったくなりません。むしろ根拠の無いネガティブイメージで、合理的な判断の邪魔をする材料になりそうです。

こうあって欲しいとメディアに望むポイントの一番目は、その記事の妥当性を判断するのに必要な基本情報を、過不足無く示すということです。テレビや新聞なら時間や文字数の制限もあるでしょうが、ネットなら参考リンクの表示など方法は有ると思います。メディアサイトとして新しく登場したハフィントンポストが、今後そうなって行くように期待したいと思います。



次のエントリーでは、二番目のポイントである視点の問題を考えてみます。



既存のメディアに欠けているもの


例えば朝出掛ける時に、お天気ニュースを見るとします。寒くなるようなら上着が必要ですし、雨が降りそうなら傘を持ち、荒れ模様になるなら早く帰る心積りが必要になるでしょう。つまり、先を見て判断する為の材料になる情報を求めて、メディアを利用するわけです。

そうした時に、まったく判断材料にならない情報を伝えられたら誰だって不満に思うでしょうし、度重なれば腹だって立つでしょう。残念ながら既存のメディアは、大事な事について度々そうでした。そうした不満があるからこそ、新しいメディアサイト・ハフィントンポストに期待もしたのですが、先のエントリーでも触れたように、今のところは既存メディアと同じにしか見えません。




では、判断材料となり得る情報提供の仕方って、どんなものでしょうか? 文句ばかり言っていても仕方が無いので、少し考えてみました。それには少なくとも、以下の三点が必要だと思います。

1、過不足の無いデータ
2、はっきりとした視点
3、判断を委ねる姿勢

逆にいえば、この三つが今のメディアには欠けている場合が多いと感じています。同じように箇条書きすれば、こんなふうになるでしょうか。

1、思い込み優先
2、曖昧な視点
3、押し付ける姿勢




日本でオープンしたばかりのハフィントンポストで、一番呆れた以下の記事には、まるで例文のように上記の三つのポイントが入っていますので、次回以降、一つ一つ見て行こうとおもいます。