2013年5月21日火曜日

委ねるということ


メディアの提供する情報は、判断材料として適切なものであって欲しいと思っています。政治に関わることなら有権者、特定のテーマなら関係者、それぞれが、より良い判断のできる情報であって欲しいと思っています。

ところが、テレビや新聞などの既存メディアも、新しくメディアサイトとして登場したハフィントンポストも、判断材料を提供するというよりメディア側の判断を押し付けているように思えます。もちろん社説などのように、メディア側が主張する場は有ってしかるべきだと思います。

しかし、普通にニュースを伝える形をとりながら、一方的な押し付けをするのは困ります。よくメディアの人が傲慢だと批判されるのは、こうした読者・視聴者に判断を委ねようとしない姿勢が理由だと思います。




特に酷いと思うのが、記事の「見出し」です。読んで欲しい、その為には分かりやすくて刺激的な「見出し」が必要…なのかもしれません。でも、記事を読む前に印象を決定付けてしまうような「見出し」が、余りにも多過ぎます。

しかも大抵が、公平性などまったく感じないような「見出し」です。記事の中身を読んで貰えば、ちゃんと公平性は保っている…(それにも疑問がありますが)と言うかもしれませんが、「見出し」だけ流し読みする人だってたくさんいるのです。

たとえば、ハフィントンポストで目に付いた以下の「見出し」。これで、ネガティブな印象を持たずにいられるでしょうか?  

・「育休 3年」って誰のため? 安倍首相の子育て支援策に批判噴出
・TPP、日本の参加はたった3日?
・育休3年=在宅勤務3年という意味か?




もしかしてハフィントンポストとは、事実報道では無くて批判報道・意見報道がメインなのかもしれません。しかしテレビや新聞でも、同じように酷い「見出し」を目にします。

すべては私の勘違いで、メディアとか報道・ニュースとは、書いた側の意見を押し付けるものなのでしょうか? 一般の有権者に対して、判断の材料となるように情報を整理して提供してくれる、そんな事を求める方が間違っているのでしょうか?

もしそうなら、なぜメディアの人々は国民の知る権利などと称して、何処にでもヅカヅカと入り込み、偉そうに質問責めにしているのでしょう? 出来るだけ多面的な材料は提供するから、後は有権者として、国民として、読者・視聴者が判断してくれ…と委ねる謙虚さが無いなら、彼らにそんな事を許す必要も無いでしょう。


2013年5月17日金曜日

定まらない視点



こうあって欲しいとメディアに望む2つ目のポイントは、明確な視点です。

例えば、朝の天気予報の「今日は暖かくなるでしょう」という言葉を信じて、半袖で出掛けると凍え死ぬほど寒かったとします。テレビ局に文句を言うと、「いやアレは、南極なら…という話です。南極ならマイナス五度や十度は充分に暖かいと言えるので、何も間違っていません」と返事をされたら、たいていの人は怒るでしょう。

地元テレビ局が地元の天気予報をしているのだから、寒暖の基準も当然、地元の視点だと思い込むのは当たり前です。そうで無いなら、天気予報として役に立ちません。何かの理由があって南極の感覚(視点)を持ち出すなら、それをハッキリと断ってくれないと、視聴者が間違った判断をしてしまいます。



物理や科学の世界は別にして、人間が営む社会の中に絶対など有りません。絶対的な正義も、普遍的な悪も無いのです。すべては、相対的に判断されます。そして、絶対が無い相対的な話では、その人の立ち位置、つまり何処に立脚した視点かということが、何よりも大事な基本となります。

例えばスポーツの試合なら、味方のミスはアンラッキーですが、相手の視点から見ればラッキーでしょう。同じ一つの出来事に対する評価も、その後の対処も、視点が違えば大きく変わります。

政治的なテーマ、特に他国が関わる外交でも、何処に立脚した視点を持つかで、評価・分析・提言は、まったく違うものになるはずです。当然、それを報じ、時には論じるメディアの視点は、明確なものでないと困ります。



しかし既存メディアの多くが、何処に立脚した視点なのか分からないような報道を頻繁に行っています。というより、自分が何処に立っているのかという基本的なことさえ、意識していないようです。

それでは視点が定まるはずもなく、また、その場その場の都合でコロコロと視点を変えても、まるで恥じないわけです。もっともそれは、メディアに限った話では無くて、多くの国民も同じだと思います。

言うまでも無く、日本という社会に立脚している日本人や日本のメディアの視点は、この日本という国でなければなりません。つまり日本人にとっての繁栄と安全から見て、どうなのかという視点です。その視点は、どこの国でも同じでしょう。



「客観的視点」とか「多様な視点」という言葉で、曖昧な視点を誤魔化す人もいますが、それらは基本となる揺るがない視点があってこそ、初めて意味を持つものです。基本となる視点が曖昧な記事は、どんなに素晴らしい文章でも、それは判断や理解の材料にはなりません。むしろ誤った認識や判断を誘う、有害な記事だと思います。

ハフィントンポストの記事でも、何処に立脚した視点で書かれているのか、非常に疑問を覚えるモノが少なく無く、その点でも既存の日本メディアと同じに思えます。

次は、三番目のポイントとして、「判断を委ねる姿勢」について書いてみます。


2013年5月12日日曜日

基本的な情報の提示


お天気キャスターが深刻そうな顔をして、「今日の午後は嵐になるおそれがあります…」と言っていたら、予定などを変更して外出を控えるか、それが無理なら雨具などの備えをして出掛けるでしょう。

でも外は、とても良いお天気です。どう見ても嵐が来るとは思えません。しかもそのニュースでは、気圧配置の図も気象衛星からの写真も、つまり嵐が来るかどうか予想するのに必要な情報が、まったく示されて無いのです。今日の行動を決める判断材料として、この天気予報は役に立つのでしょうか?



ハイフィントンポストに掲載された次の記事は、ちょうどそんな感じです。

この記事で、書き手が言っている事は以下の二行だけです。
懸念されるのは、日本の輸出する原子力技術が、核兵器製造に使われないかという点である。
日本がどのような内容で原子力協力協定を結ぶのか、注意する必要があるだろう。



日本が原発をサウジアラビアに輸出したら、核兵器製造に使われるおそれがある…。これは、冒頭に挙げたデタラメな天気予報と同じように、デタラメな記事です。仮にサウジアラビアが核兵器の開発と保有を目指していたとして、少なくとも技術的なハードルと国際政治のハードルがあるでしょう。

天気予報の喩えで言うなら、技術的な可能性を気圧配置図、国際政治上の可能性を気象衛星から見た雲の様子としましょう。それらの情報は、過不足無く示されているでしょうか? はっきり言って、まったく示されていません。

日本が原発をサウジアラビアに輸出したとして、それが核兵器製造に利用できる事を推測させる技術的な根拠が、まったく書かれていません。同時に、サウジアラビアにとっても日本にとっても強大な後ろ盾である米国が、そんな事を容認すると推測出来る根拠も、まったく書かれていません。

なによりも、記事がわざわざ引用しているように、サウジアラビアは既にフランス・中国・韓国と、原子力協力協定を結んでいるのです。技術的に考えれば日本よりも、核保有国であるフランスや中国との協定に懸念を感じるのが自然ではないでしょうか? しかし、そんな懸念が国際社会や米国から示されたなどと、聞いた事がありません。

つまり、嵐が来るおそれがあると言っているけど、外は良いお天気なのです。長くなるので省略しますが、気圧配置図(技術的なハードル)を見ても、雲の衛星写真(国際政治のハードル)を見ても、嵐が来るとはとても思えません。



この記事を書いた人は、単に日本の原発が輸出される事に反対なのでしょう。その思いが先行して、前提になる基本的な情報を蔑ろにしたのでしょう。この記事に限らず、日本版ハフィントンポストには、そうした記事が少なくありません。ちょうど、テレビや新聞といった既存のメディアがそうであるようにです。しかしこのような記事では、日本の原発輸出をどう考えるかという判断材料には、まったくなりません。むしろ根拠の無いネガティブイメージで、合理的な判断の邪魔をする材料になりそうです。

こうあって欲しいとメディアに望むポイントの一番目は、その記事の妥当性を判断するのに必要な基本情報を、過不足無く示すということです。テレビや新聞なら時間や文字数の制限もあるでしょうが、ネットなら参考リンクの表示など方法は有ると思います。メディアサイトとして新しく登場したハフィントンポストが、今後そうなって行くように期待したいと思います。



次のエントリーでは、二番目のポイントである視点の問題を考えてみます。



既存のメディアに欠けているもの


例えば朝出掛ける時に、お天気ニュースを見るとします。寒くなるようなら上着が必要ですし、雨が降りそうなら傘を持ち、荒れ模様になるなら早く帰る心積りが必要になるでしょう。つまり、先を見て判断する為の材料になる情報を求めて、メディアを利用するわけです。

そうした時に、まったく判断材料にならない情報を伝えられたら誰だって不満に思うでしょうし、度重なれば腹だって立つでしょう。残念ながら既存のメディアは、大事な事について度々そうでした。そうした不満があるからこそ、新しいメディアサイト・ハフィントンポストに期待もしたのですが、先のエントリーでも触れたように、今のところは既存メディアと同じにしか見えません。




では、判断材料となり得る情報提供の仕方って、どんなものでしょうか? 文句ばかり言っていても仕方が無いので、少し考えてみました。それには少なくとも、以下の三点が必要だと思います。

1、過不足の無いデータ
2、はっきりとした視点
3、判断を委ねる姿勢

逆にいえば、この三つが今のメディアには欠けている場合が多いと感じています。同じように箇条書きすれば、こんなふうになるでしょうか。

1、思い込み優先
2、曖昧な視点
3、押し付ける姿勢




日本でオープンしたばかりのハフィントンポストで、一番呆れた以下の記事には、まるで例文のように上記の三つのポイントが入っていますので、次回以降、一つ一つ見て行こうとおもいます。





2013年5月9日木曜日

皮袋を変えても中身は同じ


先のエントリーで、新しいメディアサイト「ハフィントンポスト」が、旧態依然としたメディアと同じに見えてがっかりしたと書きましたが、それは掲載されている記事の見出しを並べるだけで分かって貰えるのではないでしょうか。

例えば、5月8日の夜時点で掲載されていた、「政治」カテゴリーの見出しを並べてみます。

・アベノミクス、賃金より先に物価が上がる可能性が高い
アベノミクス効果、いつなの?
日本人が、声を上げ始めた
育休3年=在宅勤務3年という意味か?
国境を越える大気汚染、ぎくしゃく日中韓で防げるか
「みんな、民主主義に飢えている」
「育休 3年」って誰のため? 安倍首相の子育て支援策に批判噴出
96条改正、ハードルをめぐる各党の攻防
TPP、日本の参加はたった3日?
日銀 金融緩和は数字のマジックか?
アベノミクスが実感できない理由
サウジへの原発輸出がUAEへの輸出と異なる点とは


ネガティブです…。
疑いと否定、まるで問題ばかりと印象づけられます。
ただし、二本の記事を除いてです。

二本の記事とは、「日本人が、声を上げ始めた」と「みんな、民主主義に飢えている」で、個人や市民運動的な政治参加を取り上げたものです。つまり、政府や行政が絡む事は全てネガティブな見出しで、個人や市民運動はポジティブな見出しと、露骨なほどはっきりと分かれているのです。

これを、既視感無しに見ることは出来ませんでした。まるで朝日新聞と毎日新聞を足して二で割ったような印象です。米国で成功した新しいメディアサイトが日本でも…という賑やかな紹介に、ちょっと期待していたのですが、この既視感にがっかりしました。



なぜ、こんな事になってしまうのでしょう?

国や政府のやる事は全て疑いと批判の目で捉えてネガティブに書き、市民と名が付けば無条件に持ち上げる…。テレビ・新聞・雑誌などのメディアは、なぜいつも同じなのでしょう。媒体が紙からネットに変わっても、双方向性を謳っても、なぜメディアは同じにしか見えないのでしょう?

たぶんそれは、中の人たちが目的と手段を間違えているからだと思います。

よくメディアの重要な役割として、権力の監視ということが言われます。確かに大事な役割ですが、それは手段に過ぎなくて目的ではありません。目的はあくまで、自分たちの社会を良くすることでしょう。そうならば、いくら国や政府のやる事だからと言って、何でもかんでもネガティブに書いてしまうのは本末転倒だと思います。

国や政府のする事を、最終的に判断するには国民です。しかし、その為の判断材料を国民一人一人が集め、整理するなんて出来ません。仕事も日々の生活もあるのですから、そうしたことに割ける時間は、決して多く無いからです。

それを代行し、より良い判断が出来る材料を提供してくれる事こそ、私がメディアに望んでいるものです。多くの人も、そうではないでしょうか。ところが、国や政府のする事なら、無理やりにでも全てネガティブな記事にする…これがメディアの慣習のようになっています。そして、新しいメディアと銘打っても容れ物と飾りが違うだけで、中身はやっぱりが同じという事になってしまっています。これでは、判断材料として役に立ちません。



では、新しいメディアという言葉に期待したものは何だったのか、どんな姿勢のメディアを望んでいたのか、それを具体的な記事を例に取りながら、また書いて行きたいと思います。




2013年5月8日水曜日

不満です。

ほんの一昔前前に較べたら、個人が得られる情報の量は怖ろしいほど増えました。

でも、不満です。

どこかで何かが起きたとか、どんな商品が売り出され、どんな新しいサービスが始まるとか、そういった種類の情報は不満どころか多過ぎるくらいです。

問題は、考えて自分の意見を持たなくてはいけないような情報、例えば政府や行政がやろうとしている事、自分の所属する社会に関わる問題、それらの判断材料になるような情報が少なくて、それで不満なんです。

もちろん、そんなシチ面倒な事を考えなくても、仕事して酒飲んで眠れば明日は来ます。たぶん明後日も来るでしょう。でも、半年後とか数年後となると怪しくなります。いい加減な政治が経済を破壊するのは、つい最近まであった現実です。それは、そのまま雇用や収入に直結します。社会の問題だって、放置しておけば自分が被害者になることだって充分にあり得ます。

つまり、それらは自分にとって大いに大事な話です。そうした話に一切参加せず、誰がどのように決めたかも分からないまま、自分の身を委ねるのはイヤです。



ところが、イザ真面目に考えようとすると、先にも書いたように、判断材料になる情報がほとんど無いのです。ずっと以前は、テレビや新聞・書籍などで専門家とか有識者の言葉を分かりやすく整理し、判断材料として提供してくれるのがジャーナリズムというものだと思っていました。

ところが実際は大違いです。今では、マスコミに対する非難や侮蔑を目にしない日はありません。それも当然かなと思います。

一方で、ネット時代の新しいメディアを作ろうとする試みも沢山されています。でも、それさえ過去のメディアと同じ匂いに満ちていると思いました。そんな中で、アメリカで大成功したという「ハフィントンポスト」が日本でもサイトオープンしました。

で、期待して、すぐにアクセスしたのですが…。デザインが綺麗でも、SNSを取り入れていても、根本的なところで旧態依然という印象で、始まったばかりなのに期待はしぼんでしまいました。




それで考えてみました。ついでに、このブログを開設しました。

自分は、これらのメディアの何が不満なんだろう?

なぜ、どれもこれも同じような匂いのするメディアになってしまうのだろう。

ハフィントンポスト」の記事など引用しながら、そんな事をこのブログに書いていきます。